宮沢義隆さんの思い出

表参道の一等地をめぐる詐欺未遂事件で4人の容疑者が逮捕された。
その中に宮沢義隆という名前を見つけて、ちょっと驚いた。
宮沢さんは私のかつての上司、勤務先の社長だった人物だからだ。
創立者である初代の社長が1994年に多額の借金を残して死んだ後、
倒産または解散寸前まで追い込まれた会社を、亡くなった社長の遺族と
不動産取引を通じて縁のあった宮沢さんが、いわば救世主として
買収してくれたのであった。社長就任当初は、経営にも編集にも
口出ししないという話だったが、ほどなくどちらにも干渉するようになった。
その頃うちの雑誌は教養志向の誌面づくりをしていたが、宮沢さんは
むしろ現代志向で、「もっと写真を大きく」「もっと記事を短く」といった
方向に雑誌を改革していった。いきなり週刊文春を持ってきて、
「この中の"淑女の雑誌から"みたいのをうちでもやったらどうか」と
真顔で提案されたこともあった。
宮沢さん自身の話によると、生まれは新潟の農家で、子供の頃は
神童といわれるくらい勉強ができたそうだ。
関西のある国立大学(大学名は最後まで教えてくれなかった)へ
進んだものの、学生運動にのめり込んで中退。その後はしばらく
自暴自棄になって、日産だかホンダだかのテストドライバーをしたが、
仕事中事故で大けがをして九死に一生を得て人生観が変わり、
裸一貫で渡米。アメリカでビジネスを学んで帰国し、不動産事業を始めた。
80年代中頃からバブル経済の波に乗って地上げ屋として活躍し、
億万長者になった。バブル崩壊後は事業に行き詰まって巨額の借金を背負い、
うちに来たのもその頃だったが、財産はうまく海外に移してあるとかで、
当時でも結構リッチな生活を送っているように見えた。
こういうと典型的なバブル紳士のようだが、間近で接する限りは、
温かい人柄の人物であった。会社に顔を出すときはたいてい、
ダジャレや下ネタギャグを飛ばして堅物揃いの社員を笑わそうとした。
冗談の後にはよく「なんちゃって」と言って照れ笑いしていた。
女性にモテたほか、交友関係も広く、政財界や芸能界に多くの
知り合いがいるようだった。あの羽賀研二なども、一時は
「コバンザメのように」宮沢さんに引っ付いていたらしいが、
バブル崩壊後は電話ひとつ寄こさなくなったそうで、
「ああ見えて、計算高い男なんだよなあ」と言ってたのを覚えている。
また無類のゴシップ好きでもあった。定番の「○○は在日」ネタをはじめ
「女優の○○○○は自民党の●●●●の愛人」とか、
「元首相の△△△△△は実はホモで、大のアメリカ人(白人)好き」とか
その手のいかがわしい裏ネタ話をいろいろ聞かせてくれた。
そうした人をそらさない面白好きキャラの半面、いかにも全共闘崩れらしい
ニヒリズムを感じさせる言動も少なくなかった。体制側に取り入って
金を儲けつつも、反体制意識は強烈で、政治家(特に橋本龍太郎)や
財界(特に大銀行)には嫌悪を通り越して憎悪を抱いているように見えた。
「日本の銀行なんて、あと10年もすればみんなアメリカの銀行に
乗っ取られて消滅する」と予言してもいた。
5年ほどうちの社長を務めたあと、「借金関係の法律上の問題で
社長を続けられなくなった」とかいうよく分からない理由で退任し、
不動産事業の方に専念することになった。法律上は最初から最後まで
社長(代表取締役)にはなっておらず、そのインチキが問題化したのが
退任の真の理由だったと、後継社長になった人から聞いたこともあったが、
真偽のほどは不明である。
今回の事件で留置所に入ることになるのかも知れないが、これまでにも
実業家としてまた男として、数々の修羅場をくぐってきた人のようなので、
めげずに元気でいて欲しいと思う。今から10年ほど前、宮沢さんの発案で
ハワイへ社員旅行に行ったとき、深夜のホテルの一室で、窓の外を見ながら
「俺はもう疲れたよ。故郷に帰ってお袋と一緒に百姓でもやりたいよ」
と話していた寂しげな横顔を思い出す。そういう思いを胸の底に
ひそめながら、東京でのヤバイ仕事から足を洗えなかった宮沢さん。
しかし、私は同情などしない。むしろ、東京地検特捜部という極めつけの
国家権力に対してメラメラと敵意を燃やす不屈の元革命家を想像したい。
たぶん羽賀研二とは違って、宮沢さんは少くとも稀代のワルではないと思う。