渋谷陽一のツェッペリン再結成コンサート報告は絶讃に値する。

夕方から地元の書店へ行ってブラブラしていると、
ロッキング・オンの表紙に「渋谷陽一ツェッペリン再結成を遂に観た!!」
という見出しが見えた。ERIKA様の感想など聞きたくもなかったが、
渋谷のリポートはぜひ読みたかったので、早速読んでみた。
読んで感動した。極めて優れたライブリポートだったからだ。
恐らく日本ロックジャーナリズム史上の金字塔といっても過褒には
ならないのではないか、そう思えるぐらい素晴らしいリポートだった。
コンサートの内容を伝える狭義のリポートの部分も非常によく書けているが、
殊に秀逸なのは、今回のコンサートが成功した本質的理由を渋谷が考察している
結論部分であろう。一人でも多くの方に彼の記念碑的な文章の
全部を読んで欲しいという願いを込めて、あえて結論部分のみ引用する。

なぜ、この再結成は成功したのか。簡単にいってしまうとメンバーがツェッペリンとはなにかを理解したのである。確かに曲を作り、演奏しているのは個々のメンバーであり、ジミー・ペイジにしてみたら、ツェッペリンすなわち自分という思いがあるだろう。しかし、違うのである。もしそうならば、ジミー・ペイジは次のツェッペリンを作れたはずである。しかし彼はツェッペリンどころか、そのイミテーションさえ作れなかった。では、メンバー3人が集まればツェッペリンになるのか、それも違う。彼らが認めるとおり、ライブ・エイドのときのようにドラムにフィル・コリンズを呼び、当日リハするだけではツェッペリンにならなかったのである。
ツェッペリンは曲に宿り、ツェッペリンはグルーヴに宿っているのである。それを導き出すのはメンバーだが、あくまでも彼ら自身がツェッペリンであろうとする覚悟と準備がない限り、ツェッペリンのマジックは降臨しないのである。そのことに、ようやく彼らは気付いたのである。ジェイソンもそうだ。彼はこのバンドが要求するドラムとはなにかを、徹底的に考え抜き、そこと向き合った。チューニングも父親とまったく同じにしたのではないか。本当に素晴らしいドラミングであったが、痛々しいほどストイックであった。それはメンバー全員に共通するものである。NYで観たペイジ・プラントのライヴで、ジミー・ペイジサイドギターを弾いていた。そのときも何曲もツェッペリン・ナンバーが演奏されたが、そこにはツェッペリンは存在しなかった。ロバート・プラントのヴォーカルも、ツェッペリンと向き合っているとは思えなかった。僕は、今回の再結成がその再現になることを、本当に怖れていた。それはツェッペリンに対するメンバー自身による裏切りである。しかし予想は、嬉しい方向にはずれ、ツェッペリンは僕達の前に出現したのである。特にジミー・ペイジは素晴らしかった。自分がツェッペリンにとってなにであるかに自覚的なプレイに徹底していた。ロバート・プラントも、ジョン・ポール・ジョーンズもそうだった。自分にとってのツェッペリンが問題なのではなく、ツェッペリンにとって自分がなにであるかが問題なのである。そのことに全員が気付いたとき、本当にツェッペリンは復活したのである。信じられないが、本当にレッド・ツェッペリンは復活したのである。