P.D.ジェイムズの『策謀と欲望』を読んで

昨夜遅くにP.D.ジェイムズの『策謀と欲望』を読み終えた。
なんとも言えない深い感動に襲われ、しばらく興奮状態が続いた。
今回もまた、感動は推理小説としての結構の良さからよりもむしろ、
文学作品としての深みと完成度の高さから来たように思われる。
人間心理、特にその暗部に関するPDの洞察の深さと鋭さは恐ろしいほどだ。
しかもその暗部の剔出の手際を自慢げにひけらかすのではなく、
闇を闇として冷徹に凝視しつつ、最後には優しさの光でそれを包む。
そこにP.D.ジェイムズの魅力の核心があると私は思う。
5年ほど前にウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を読んだとき、
これ以上に素晴らしいミステリー小説には自分はもう一生出会えないだろうと思ったが、
それは思い違いだったようだ。文学作品としての質では及ばないものの、
私にとって『策謀と欲望』は、『薔薇の名前』に匹敵する最高傑作である。
ここでは、とりわけ文学的魅力に満ちた一章を引用しておく。
文中のメイアーは、優秀かつ冷徹な物理学者でラークソーケン原子力発電所の所長。
ニール・パスコーは反原発運動を主宰する若き活動家である。


部屋から出る前に戸口で足を止めたメイアーは、初めて見るような目で室内を見回した。
彼は新しいポストに意欲を燃やし、手に入れるために策を練り、段取りをつけてきた。
それがいよいよ自分のものになろうとしている今、人間社会の喧噪から遠く離れ、
荒涼として、非妥協的な力に溢れるラークソーケンを去りがたく思っていた。ここでは
サフォーク海岸のサイズウェルのように敷地内を美しく飾る努力は払われていない。
あるいは、定期的に訪れるドーセット州ウィンフリスで感心する、心地良く配置された
滑らかな芝生、花をつけた樹木、灌木といったものもない。海に沿って湾曲して建てられた
燧石の低い塀の陰で、毎年3月の風を受けて水仙が華やかに揺れ騒ぐぐらいで、
灰色の巨大なコンクリートに調和や柔らかみを加えるものは何もなかった。
しかしそれが彼は好きだった。無限の空の下の、白いレースで縁取りされた茶灰色の
荒海の広がり。窓に軽く手を触れて開けると、瞬時に遠雷のような絶え間ない轟きが、
砕ける大波のうねりがオフィスに流れ込んでくる。メイアーは嵐の冬の夜が一番好きだった。
夜遅く仕事をしていると、海岸沿いにヤーマス航路に向かう船の明りが水平線にちらつき、
灯台船のまたたく光や、危険な浅瀬を船乗りに警告し続けてきたヘイズバラ灯台の明りが見える。
どんな闇夜でも、海は不思議に光を吸収反射するらしく、15世紀に建てられた
ヘイズバラ教会の壮麗な西塔が識別できる。西塔は、この危険きわまりない海に対する
人間の心細い防戦を象徴する要塞だった。いや、象徴するのはそれだけではない。
塔は、平時に、あるいは戦時に溺死した多勢の船乗りたちが最後に目にした陸の眺め
だったにちがいない。事実に関する記憶力が抜群のメイアーの頭には、思いのままに
細かい事実が浮かぶ。1770年12月19日に浅瀬に乗り上げた英国軍艦ペギーの乗組員、
ネルソン提督の艦隊と落ち合うためにコペンハーゲンに向かう途中で、
1801年3月13日砂地で大破した軍艦インヴィンシブルの乗組員119名、
1804年に沈没した税関監視船ハンターの乗組員。遭難者の多くは、ヘイズバラ教会付属墓地の
草深い土の下に眠っている。信仰の時代に建立された塔は、海といえども死者を返してくれる、
神は陸の神であると同時に海の神でもあるという最期の悲願の象徴でもあった。
だが現代の船乗りたちは、その塔がいじけて見えるほど巨大なラークソーケン原子力発電所
四角い塊りを目にする。無機物に象徴的な意味を求める人々には、簡単で便利なメッセージだった。
人間は知性と努力によって自らの住む世界を理解し、征服できるし、はかない一生をよりよく快適に、
苦痛の少ないものにすることができる、と。メイアーには、それは挑戦しがいのあることだし、
生きていく上で信じるものが必要なら、それで充分だった。しかし、浜の石を打つ波の音が
遠い銃声のように聞こえる闇夜など、科学にしろ象徴にしろ、溺死者の生命と同じく
はかなく思えてきて、この巨大な建物も、第二次大戦時のコンクリート防塁のように、
いずれ海に屈服して波に洗われ、荒寥とした海岸にまつわる人間の長い歴史のシンボルとして
残骸をさらすことになるのではないかと思ったりする。それとも、時間にも北海の荒波にも抗って、
この惑星についに暗黒が訪れた時もまだ立っているのだろうか。一段と悲観的な気分になった時など、
心の気ままな部分で、そういう暗黒は自分の、あるいは息子の時代にではないにしても、
必ずやってくると思う。自分とニール・パスコーは反対の立場をとっているが、
理解し合えるかもしれないと考えて、独り苦笑いを洩らすこともある。
唯一の違いは、片方は希望を持っているということだろう。



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