あるオタク文化論

帰りに立川のオリオン書房で『ちくま』5月号を貰ってきた。
その中に森川嘉一郎という人のオタク文化論が載っていた。
やや長くなるが、なかなか面白いので引用しておく。

以前であれば、いい歳をして漫画やアニメ、ゲームに耽っているだけで
眉をひそめられ、「オタク」だと見なされた。ではそれらの対象が
一般に浸透するに従って、オタクの世間的イメージが向上したかというと、
むしろオタクたちは、そこから逃れるかのように、男性のオタクであれば
美少女ゲーム、女性であれば少年愛を描く「やおい」や「ボーイズラブ
のように、より「ダメ」なサブジャンルを作り上げ、そちらへ中心を
移していったのである。ただし特徴的なのは、そこに体制に抗おうとする
動機が強く働いているわけではないということである。オタク文化は、
下克上的に指向性を帯びる世代間の対立が後退し、
世代内の主流と非主流という横軸の構造が浮上することによって発生している。
全共闘の頃のカウンターカルチャーが反体制的であったとすれば、
オタク文化は「非体制」の文化なのである。
もともとオタク文化は、まさに全共闘の頃のカウンターカルチャーが唱導した
自由恋愛が、バブル期に広告資本によって体制化されたときに、
その圧力から逃れるための逃避文化として育まれた側面を持っている。
60年代以降の若者文化が総じて男女をくっつけようとする方向性を
帯びたのに対し、オタク文化は例外的に男女を分離させる作用を持ち、
対異性の緊張感から解放されたコミュニティの形成を促してきた。
それゆえ、「オタク文化」と外側から認知され、逃避先として
機能しなくなるくらい一般の男女から市民権を与えられる頃には、
オタクの人たちはそこから逃れてしまっている。「オタク文化」とは、
オタクの人たちの足跡なのだ。
その軌跡を眺めると、オタクの人たちが萌芽的なサブカルチャーを育み、
市場が拡大するとともに市民権を得ると、オタクの人たちはパイオニアのごとく
前衛を求めて移動し、その「次」を準備するというダイナミックスが見出せる。
権威の接近は、一面でオタクの人たちからその文化を略取しつつ、他方、
新たなオタク文化の採掘へと彼らを急き立てるという、二面性を持っているのだ。

私が9nineキャナァーリ倶楽部E☆Trapsに惹かれるのも、
無意識のうちに前衛を求めて移動しているからなのかもしれない。
もし現在のアイドルシーンに最前衛というものがあるとすれば、
橋口恵莉奈という存在がそれに当たるのではないかと私は思っている。